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2010年09月 アーカイブ

1930年代のアメリカ経済 5

同じくNIRAによって設立されたPWA(公共事業庁)は、内務長官ハロルド・イッキーズがその長官を兼ねました。


PWAは30億ドルという巨額の予算をもって、新しい学校やハイウェイ建設などの公共事業によって創出される雇用に期待がかけられます。


しかし、イッキーズがその支出に慎重すぎて消極的だったため、あまり実効があがらず、1935年WPA(失業対策事業庁)が設定されるまで、救済計画は間に合わせ的なものでした。


これらニューディール政策とならんで重要であったのは、1933年4月における金本位制の停止と、翌34年1月における金準備法の制定。


これにより金1オンスは35ドルと、ほぼ41%のドル切り下げとなりました。


同時に国務長官コーデル・ハルは互恵通商協定法により、従来の高関税政策から関税切り下げへの転換をはかっています。


このため、大統領には50%の範囲で関税を変更する権限が与えられました。


これらの通貨ならびに通商上の措置により、ようやく輸出が拡大に向かい、金の流出は逆に流入に転じました。


しかも、アメリカは世界主要国がブロック経済体制に分裂してゆくのに対抗して、互恵通商条約の拡大により、西半球の経済圏を防衛することができたのです。


しかし、このことによって世界経済はますます亀裂を深め、アメリカの輸出増大も、おのずから限定されていきました。

1930年代のアメリカ経済 6

このようにして、未曾有の銀行危機を一応乗り越えてローズベルト政権の第一次ニューディールが展開されました。


しかし、それは1年と経つや経たずで破綻を示しはじめていました。


まず第一に、景気の回復は、きわめて緩慢であったこと。


失業者は依然として高率で、1000万人を超えるありさまでした。


第二に、政権の初期におけるような挙国一致体制は、長持ちすることを望むほうが無理でした。


とくに労資間の利害の対立は、次第に露骨なものとなりました。


第三に、ローズベルト自身のスタンスもあいまいでした。


進歩的なゼスチュアを示しつつ、彼は片足をどっぷりと保守的なグループのなかにつけていたのです。


また緊縮政策をとるかと思うと、ケインズ流のスペンディング政策をとるというようなバラつきが目立ちました。


ことに第一次ニューディールのいわば主軸となったNIRA体制のなかに大きな矛盾があり、労資抗争の場にもなりました。


NIRAの規定の第7条は、労働条項の基本である被雇用者の団結権と団体交渉権を定めていましたが、いわば玉虫色の規定であったため、労資の解釈は食いちがっており、常に紛争の種となったのです。

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