ある男のつぶやき 6
人間はなんと神秘なものか」と男は思わずにはいられないのだ。
「自分で食事ができ、トイレに行ける子を持って、それで不満を言ったらバチが当たりますよ。
期待や欲を捨てると、子供のいいところだけ見えますよ」男は部下が言っていたひと言を思い浮かべた。
手の跡が残りそうに息子の手をしっかりと握っていた、駅の階段で見た親子のことを男はまた思い出している。
男の息子がこの春、晴れて社会に出る。
一区切りついた、そんな思いで男は郷里に帰り、久し振りに実家の仏前に手を合わせた。
そのとき、母が「お前、覚えているかね」と仏壇の引き出しから、一包みの封筒を取り出して手渡した。
手紙と見覚えのある「豚児をよろしく」、と書き入れた父の名刺が五通、束になっている。
「お前は親戚で最初に上京する。
うちには本当の親戚は東京にいない。
一人で頑張れ。
だが、困ったときは、この人たちを訪ねよ」突然、三〇年前の就職を控えていた三月のことが、昨日のことのように男の胸に甦った。
息子が就職のたあに上京する。
まだ新幹線もない、汽車で丸一日かけないと、東京にいけなかったころの話だ。
「お前が落ち着いたら、お母さんと一度上京する。
それが夢だ」。
なかなかいいこと言う部下ですね。